裁判員制度
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日本でも裁判員という制度が施行されて結構経ちますが、僕のところにもとうとう赤紙が来ました。
最初の知らせは、今年中(だったかな?)にもしかしたら裁判員に選ばれるかもしれませんという内容でした。
そして、本当に忘れた頃に、裁判員の候補者になったという知らせが届きました。
基本、刑事事件の裁判ですからちょっと武者震いをする思いでしたが、先日その抽選に東京地方裁判所に行ってきました。
運が悪いと、残虐な殺人事件を担当しなければならなくなるのです。
その判断如何では死刑の判断をしなければならい事だってあります。
結論から言いますと、僕は今回の抽選からは漏れてしまいました。
ちょっとだけホッとし、ちょっとだけ好奇心がうずきました。
(実際、僕のところに来た事件は殺人事件ではありませんでした。ひどい事件ではありましたが…)
裁判所という所はなんだか特別の場所です。
人が人を裁く場所。
裁判官や弁護士、検察官は人一倍法律を勉強したスペシャリストであることはもちろんです。
その上なぜ一般市民に裁判員をさせるのか?
それは様々な経験や価値観をもった一般市民のそれぞれの常識に照らして、有罪無罪、刑罰の内容を決めるためだそうです。
僕はいい制度だと思いました。
人を裁くってすごく重い責任が伴います。
すごく重い責任って言われてもとても非現実感があるでしょう?
毎日の生活でいちいち「すごく重い責任」を感じていては、疲れすぎてしまいます。
例えば、子供を育てる事だってものすごく重い責任があります。
でも日々の生活の中にその責任は隠れてしまい、いつの間にか忘れてしまう。
でもこの霞が関の裁判所の様な場所に一步足を踏み入れれば、その瞬間に重い責任を現実のものとして感じることになります。
忘れていた他の様々な重い責任をも振り返らされたようなそんな気分でした。
抽選から漏れた人にも今年中は再抽選の可能性があるそうなので、もしまたその機会があったら心を引き締めて参加したいと思います。
自分自身を見つめなおすいい機会になりました。
※写真は東京地方裁判所の外観。中は撮影録音禁止です。